تسجيل الدخول山のふもとに、小さな花の子たちが暮らす村がありました。春になると、村の子どもたちはみんな、胸のあたりに小さなつぼみを持っていて、あたたかい風が吹くころになると、そのつぼみがひとつ、またひとつとほころびていきます。ぱりん、と乾いた音を立てて皮が割れ、蜜のような甘い匂いがふわりと立ちのぼる、その瞬間が村ではいちばんの祝いごとでした。赤い花を咲かせる子は、勇気の心を持つ子。 青い花を咲かせる子は、静けさの心を持つ子。 黄色い花を咲かせる子は、希望の心を持つ子。 白い花を咲かせる子は、優しさの心を持つ子。花が咲くたびに、その色は風に乗って村の広場までふわりと届き、広場はいつも、子どもたちの心の色でいっぱいになるのでした。その年の春も、子どもたちのつぼみが次々とひらいていきました。けれど、ひとりだけ──。村でいちばん小さな女の子、フィウだけは、いつまでたってもつぼみが固いままでした。村のお年寄りたちは、フィウのつぼみを見るたび、少し困ったような、それでいて何かを思い出そうとするような顔をしました。まるで、遠い昔に聞いた歌の一節を、喉のところまで思い出しかけているような顔です。誰も、それが何の歌だったか、口には出しませんでした。フィウは、広場のすみっこにちょこんと座って、自分の胸のつぼみをじっと見つめていました。「どうして、わたしは咲けないんだろう」友だちのキィカ──黄色い花を咲かせた、村でいちばんのおしゃべりな女の子──が、風に揺れて笑い声のような音を立てるのを見ながら、フィウはそっとため息をつきます。風が吹いても、フィウのつぼみだけは、ぴくりとも動きませんでした。「そのうち咲くよ」 「急がなくていいんだよ」まわりの子どもたちは、いつも優しく声をかけてくれました。でも、優しくされればされるほど、フィウの心は少しずつ沈んでいくのでした。慰められるたびに、自分がみんなとは違う場所に立っているのだと、あらためて思い知らされる気がしたのです。だから、フィウは人の輪の中にいるのが苦手になって、誰かの後ろにそっと隠れる癖がつきました。土の匂いのする、日陰のひんやりした場所が、フィウにとっていちばん落ち着く場所でした。ある日のことです。あのおしゃべりなキィカが、めずらしく黙りこんで、うつむいていました。花びらの先が、少しちりちりと丸まっています。「どうしたの
森の匂いが変わる時刻だった。昼の青い匂いが、夜の黒い匂いに変わりはじめる、あの心細い夕暮れ時。少女は、もう三度目の同じ倒木の前に立っていた。木々はどこまでも似た顔をしていて、来た道も行く道もわからない。喉の奥に、涙になりかけた何かがつかえている。そのとき、頭上からずしん、ずしんと地面が揺れて、木々の隙間から大きな影が降りてきた。「おや。迷子だね」声は低く、けれどどこか間延びしていて、怖さより先に、少女の肩の力を抜かせた。見上げると、木々よりも高い巨人が、首をかしげてこちらを覗きこんでいる。困ったような、それでいて笑いをこらえているような、変な顔だった。巨人は少女を大きな手のひらに乗せると、鼻歌まじりに森の外れまで運んでくれた。地面に降ろされたとき、少女はお礼を言おうとして名乗った。「わたし、ミナ」「ミナか。いい名前だ」巨人は大きくうなずいた。ところが翌日、ミナがまた森を訪ねると、巨人は虫でも見るような顔でこう言った。「きみ、だれだったかな」ミナは面食らったが、次の瞬間には吹き出していた。この巨人は、覚えていることより忘れていることのほうが多い生きものらしい。「いいよ」とミナは言った。「わたしが覚えておく係になる」巨人の指先に、小さな手のひらをぺたりと押しあてて、ミナはそう約束した。翌週、ミナは木の実の皮で作った、ざらざらした表紙のノートを持ってきた。表紙には、炭で「巨人さんのおぼえがき」と書いた。中には、拾った木の実の数、巨人が教えてくれた星の名前、初めて二人で声をあげて笑った日のこと──そういう小さな出来事が、丸っこい字でひとつずつ増えていった。巨人は相変わらずよく忘れた。朝に助けた子リスのことを、夕方にはもう覚えていない。そのたびにミナはノートを開き、指でなぞりながら読んで聞かせた。「昨日はね、あなたが川で溺れかけた魚を助けたんだよ」 「一昨日はね、迷子の子リスに木の実を分けてあげたの。あなた、照れてたよ」巨人は膝を抱えて、じっと聞き入った。忘れてしまったはずの記憶なのに、聞いているうちに、胸の奥がじんわり熱くなる。それは初めて感じる種類のあたたかさだった。「変だな」と巨人はぽつりと言った。「忘れても、きみが持っていてくれるなら、なくなった気がしない」ミナはノートを抱きしめて、得意げに鼻を鳴らした。「そうでしょう。わたし、こ
深い入り江の、いちばん奥。 日の光もやわらかくしか届かないその場所に、ルナという人魚が暮らしていた。生まれつき体が弱いルナは、外海に出ることができない。潮の流れに少しあらがうだけで、息が切れてしまうのだ。かわりにルナは、岩に腰かけて歌を歌う癖があった。声を出すと、寂しさが少しだけ薄まる気がしたから。歌いながら、貝殻を拾って並べる。青い貝、白い貝、渦を巻いた貝。それがルナの、ささやかな地図だった。「海って、どんなところなんだろう」他の人魚たちは毎日のように外海へ出かけていき、遠い島の話や、光る珊瑚の森の話を土産に持ち帰ってきた。その話を聞くたび、ルナは笑顔をつくりながら、貝殻をひとつ、また海に返した。ある日、迷い込んだ一羽のカモメが、疲れた羽を休めるように岩に降り立った。ルナが歌うのをやめると、カモメは目を丸くして言った。「今の歌、すごくきれいだった。もっと聞かせてよ」驚いたのはルナのほうだった。誰かに歌をほめられたのは、初めてだったから。 それから二匹は、あっという間に友達になった。カモメは毎日入り江へやってきては、空から見た景色を語ってくれた。「朝の海はね、金色に光るんだよ」 「ずっと遠くには、雲より高い山があるんだ」 「海の上に道なんてないけど、風がちゃんと案内してくれる」そのひとことひとことが、ルナの心の中に、行ったことのない景色を描いていった。それからルナは、貝殻を並べながら、カモメの話をもとに想像の中で海を旅するようになった。金色の波を越え、雲より高い山を見上げ、風に導かれて進んでいく。歌うと、その景色はいっそう鮮やかになった。まるで、自分の声が波になって運んでくれるみたいに。けれどある晩、貝殻の地図を見つめながら、ルナはぽつりとつぶやいた。「わたし、本当の海を、一度も見たことがないんだね」となりで羽を休めていたカモメは、少し考えてから言った。「知らないことは、悪いことじゃないよ。……でも、いつか見せてあげたいな」ルナは何も言わず、ただ貝殻をひとつ、そっと握りしめた。数日後、カモメが息を切らして飛んできた。「聞いて! 沖の船乗りが話してたんだ。『夜になると、どこからか美しい歌が聞こえてくる』って。あれ、絶対あなたの歌だよ」ルナは信じられなかった。自分はまだ、入り江の外へ一度も出たことがないのに。でも同時に、指先
町外れの小さな家に、ミユという女の子が住んでいた。冬が来るたびに、ミユはおじいちゃんと一緒に庭で雪だるまを作った。丸めた雪を重ね、木の枝で腕をつけ、石ころで目と口を作る。仕上げに、おじいちゃんが自分の首から外した焦げ茶色のマフラーを、雪だるまの首に巻いてやる。それが二人だけの、毎年の約束だった。「いいか、ミユ。雪だるまはな、ただの雪じゃないんだぞ」 おじいちゃんはマフラーの結び目をきゅっと締めながら、いつもそう言って笑った。 「心を込めて作れば、ちゃんと応えてくれる」ミユが六歳になった年の冬、おじいちゃんは静かに眠るように旅立った。棺の中のおじいちゃんは、あのマフラーを巻いていなかった。ミユはそれをこっそり形見にもらい、簞笥の奥にしまい込んだ。その年の初雪の朝、ミユは一人で庭に出た。悲しくて、雪だるまなんて作る気になれなかった。けれど、気がつくと手は勝手に雪を丸めていた。下から大きく、真ん中を少し小さく、頭はいちばん小さく。そして家に駆け戻り、簞笥の奥からマフラーを取り出して、震える手で雪だるまの首に巻いた。結び目を締めた瞬間、雪だるまがふわりと動いた。「泣くな、ミユ」低くて、優しい、忘れられない声。「お、おじいちゃん……?」雪だるまは答える代わりに、ゆっくりと右腕の枝を持ち上げてみせた。まるで、大丈夫だよ、と言うように。それから毎年、初雪の日にミユは雪だるまを作り、簞笥からマフラーを出してきて首に巻いた。マフラーを巻いた瞬間だけ、雪だるまは動き、話した。十歳の冬、自転車の練習でひどく転んで、膝から血を出して庭に座り込んでいたミユに、雪だるまは言った。 「立て。今日立たなきゃ、明日も立てなくなる」 ミユは泣きながら自転車にまたがり、日が暮れるまで転び続けた。十四歳の冬、初めて好きになった人にふられて、口も利かずに雪の中に突っ立っていたミユに、雪だるまはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。 「今は、世界が終わったみたいだろう」 「うん」 「でもな。雪は、また降る」 それだけだった。それだけで、ミユは声を上げて泣いた。十八歳の冬には、雪だるまの言葉はずいぶん少なくなっていた。何を聞いても、 「お前ならもう、わかるだろう」 とだけ答えて、あとは雪の庭に静かに佇んでいる時間が増えた。マフラーの色も、少しずつ色褪せて見えた。二十歳の冬。大学の合
春が訪れたことを知らせるように、やわらかな風が町を吹き抜けていた。桜のつぼみはほころびはじめ、通学路にはうっすらと花びらのじゅうたんができている。そんなある日の午後、町はずれの小さな公園に、一人のおばあちゃんがちょこんと腰を下ろしていた。 ベンチは木製で、少し古びていた。座るたびにギシリと音を立てるけれど、おばあちゃんにとってはそれさえも懐かしい。毎週火曜日の午後、この公園に来てのんびり過ごすのが、長年の日課になっていた。手には、風呂敷に包まれたお弁当。中身は、自分で握ったおにぎりが二つ。それと、ぬか漬けを少し。今日の具は、昔から変わらない梅干しとツナマヨだ。 おばあちゃんの名は、さと子。七十をとうに越えているが、背筋はしゃんとしていて、白髪をきれいにまとめている。着ているのは淡いピンクのカーディガンと紺のスカート。春の日差しの中で、どこか柔らかな光をまとっているように見えた。そのときだった。 ベンチの前の砂利道を、ランドセルを背負った男の子がトボトボと歩いてきた。靴は泥だらけで、肩は小さく落ちている。視線を足元に落としたまま、まるで世界に背を向けるようにして歩いていた。さと子はふと、その姿に目を留めた。「こんにちは」男の子はぴたりと足を止めた。驚いたように顔を上げると、おばあちゃんを見た。「……こんにちは」声は小さく、どこか元気がない。「学校帰りかい?」男の子は、こくりとうなずいた。「疲れた顔してるね。ちょっと、ここで休んでいかない?」さと子はにこやかにベンチの隣をぽんぽんと叩いた。男の子は少し迷うような様子を見せたが、ためらいがちにそっと腰を下ろした。ランドセルが、重そうに背中にのしかかっている。「名前、聞いてもいい?」「……はると」「はると君。いい名前ね。私はさと子っていうの。よろしく」
序章 遠い北の山奥に、百年の眠りについた姫がいるという噂があった。 姫を眠らせているのは、山頂の古城に住む一匹の竜。誰もが「恐ろしい怪物が姫を人質にしている」と信じていた。 だが、村の古老だけはこう語った。「あの竜の唸り声を聞いたことがあるか。あれは怒りではない、夜通し泣いているような声だ」 若者トビアスは、村を救う英雄になりたい一心で、剣を携えて山を登った。 城の最奥、玉座の間で、彼はついに竜と対峙する。竜は炎のような赤い瞳で若者を見つめたが、その瞳の奥には、怒りよりも深い何かが揺れていた。竜は低い声でこう言った。「お前もまた、剣を持ってきたのか」 その声には、うんざりしたような、それでいてどこか期待するような響きがあった──まるで、これまで訪れた誰もが同じ選択をしてきたことを、竜自身が一番よく知っているかのように。ここでトビアスの選択が、物語を三つの道に分ける。選択A:剣を抜く「英雄の道」 トビアスは迷わず剣を構えた。竜はそれを見て、なぜか安堵したように目を細め、それから抗うように炎を吐いた。 激しい戦いの末、若者は竜の急所を突き、竜は崩れ落ちる。「……ようやく、終わるのか」 竜はそう呟き、静かに息絶えた。その声には憎しみも恨みもなく、長い務めから解き放たれるような静けさだけがあった。同時に、玉座の間に光が満ち、姫がゆっくりと目を開ける。 村に戻ったトビアスは英雄として讃えられ、姫と結ばれた。だが彼は時折、竜の最期の声を思い出す。あれは敗者の声ではなかった──まるで誰かに終わらせてもらうのを、長い間待っていたかのような。祝宴の夜も、彼の心には小さな棘が残り続けた。〈英雄の勝利、しかし晴れきらない心〉選択B:対話を選ぶ「和解の道」トビアスは剣を鞘に収め、静かに問いかけた。 「なぜ姫を眠らせている?」竜は驚いたように長い首をかしげ、やがて語り始めた。 かつて竜は人間の魔法使いだった。姫の一族に裏切られ、呪いによって竜の姿に変えられてしまったのだ。姫を眠らせたのは復讐ではなく、姫の一族の魔法が解ける唯一の方法──姫が心から誰かを想うことでしか、自分にかけられた呪いも解けないと知ったからだった。「私はただ、誰かがここまで来て、話を聞いてくれるのを待っていた」 トビアスは竜のそばに座り、夜通し語り合った。翌朝、姫は自然に目を覚ました。